2010年04月01日
「大漁」に思う
トドさんが「大漁」の事をコメントして下さってましたが、これは みすゞさんの甦りのきっかけとなった詩でした。
矢崎節夫氏が学生の頃 この詩と出逢った事で、みすゞさん探しが始まったそうです。
何かのコラムに、矢崎先生が“春になると この「大漁」を思い出す”と書いてあったのを見ました。それ以来 私もやはり 春になって 桜が咲いて散るのを見ると この詩を思うようになりました。
大漁 金子みすゞ
朝焼小焼だ 大漁だ
大羽鰯の大漁だ
浜はまつりのようだけど
海の中では何万の
鰯の弔いするだろう
春は出会いと別れの季節です。
桜が咲いて あっという間に散ってしまうのも、やはり出会いと別れ。
大羽鰯の大漁で賑わう浜と、弔いをしている海の中もまた、出会いと別れ。
桜が開花しはじめたと、人々の心もぱあっと明るく花開いた頃、突然 大切な友人をなくしました。
まさに「大漁」のように、ひっそりと お弔いが行われました。
とても純粋で優しい人でした。
優しすぎて ひとに受けいれてもらえない場面も時にありました。
でも どう考えても 真っ当な生き方をしていたし 人としてステージの高いところにいたと思います。
沢山お世話になったのに、何もお返しできないままだったのが悔やまれます。
ただ、その直前に、私は運良く その生き方が素晴らしかった事を伝える事ができました。
「愛する人達に無償の愛をそそいできた貴方はすごい」と伝える事が出来たことが たった一つの救いでした。
みすゞさんは、「大漁」の中で「出会いと別れ」や「生と死」をうたっているというよりは、「星とたんぽぽ」の「見えぬけれどもあるんだよ」のように、人の心の中の光と影をうたっているのではないかと思います。
でも、光が明るくて 影が寂しいのではなく、光は影に寄り添って、木陰のような心地よさに変えることができるのだと・・・気づかせてくれる優しさであふれています。
私は、みすゞさんの詩を読むと、自分が優しくないことに気付かされて いつも泣きたくなるんです。
泣きたくなって、その先は「ありがとう」です。
その繰り返しです。

矢崎節夫氏が学生の頃 この詩と出逢った事で、みすゞさん探しが始まったそうです。
何かのコラムに、矢崎先生が“春になると この「大漁」を思い出す”と書いてあったのを見ました。それ以来 私もやはり 春になって 桜が咲いて散るのを見ると この詩を思うようになりました。
大漁 金子みすゞ
朝焼小焼だ 大漁だ
大羽鰯の大漁だ
浜はまつりのようだけど
海の中では何万の
鰯の弔いするだろう
春は出会いと別れの季節です。
桜が咲いて あっという間に散ってしまうのも、やはり出会いと別れ。
大羽鰯の大漁で賑わう浜と、弔いをしている海の中もまた、出会いと別れ。
桜が開花しはじめたと、人々の心もぱあっと明るく花開いた頃、突然 大切な友人をなくしました。
まさに「大漁」のように、ひっそりと お弔いが行われました。
とても純粋で優しい人でした。
優しすぎて ひとに受けいれてもらえない場面も時にありました。
でも どう考えても 真っ当な生き方をしていたし 人としてステージの高いところにいたと思います。
沢山お世話になったのに、何もお返しできないままだったのが悔やまれます。
ただ、その直前に、私は運良く その生き方が素晴らしかった事を伝える事ができました。
「愛する人達に無償の愛をそそいできた貴方はすごい」と伝える事が出来たことが たった一つの救いでした。
みすゞさんは、「大漁」の中で「出会いと別れ」や「生と死」をうたっているというよりは、「星とたんぽぽ」の「見えぬけれどもあるんだよ」のように、人の心の中の光と影をうたっているのではないかと思います。
でも、光が明るくて 影が寂しいのではなく、光は影に寄り添って、木陰のような心地よさに変えることができるのだと・・・気づかせてくれる優しさであふれています。
私は、みすゞさんの詩を読むと、自分が優しくないことに気付かされて いつも泣きたくなるんです。
泣きたくなって、その先は「ありがとう」です。
その繰り返しです。
数日前の馬場の一本桜
宝珠寺のヒメしだれ桜