2008年09月25日
半分しか語らない
昨日から・・・一本のメールを前に、どう返信しようかと 考えあぐねていました。
昔の生徒であった彼女は、時々 私にメールをくれます。
彼女をとりまく環境は過酷であり、どんな強靱な精神の持ち主であっても折れてしまうだろうと思うような出来事がありました。
私のように のほほんと生きてきた人間には、想像でしか 彼女の辛さや悲しさ、寂しさはわかりません。
それでも、そんな私にメッセージをくれます。
元気な時ではなくて、心が弱った時にです。
一年契約で始めた仕事を、あと5ヶ月を残して辞めてしまい、後悔しながらも、これ以上は続けられなかった辛さは 先日のメールにも綴られていました。
私としては、これまでも同じような事が続き、今度こそはと願っていたので、かなりガッカリしてしまい、そのときも、どう返信して良いのか悩んでしまいました。
心の中では、「もうちょっと頑張ってくれたら良かったのに。今度こそ乗り越えられたかもしれないのに」という気持ちがあるものですから、口先だけで「いいよ、仕方ないね。よくやったよ」と言ってあげる事ができなかったのでした。
昨日のメールには、その後、ずいぶん落ち着いたこと、肩こりや手の痺れ、不整脈の治療に専念している事、仕事を辞めてしまった事への後悔などが綴られていました。そして、最後に、「歌いたい」気持ちが書かれていました。
思いっきり声を出して発散したいのでしょう。
私に出来るのは、歌いたい気持ちを解消してあげる事。
思いっきり声を出せる機会を作ってあげること・・・それしかないだろうと、どこでどう作るかを考えていました。
彼女の「歌いたい」という気持ちは、例えば、グループで思いっきりゴスペルを歌う事であり、独りで歌うのとは違うのです。
なので、その場を作るといっても、じゃあ明日ねって訳にもいかず・・・ちゃんと考えてから返事をしようと、昨日から考えていました。
でも・・・。
昨夜、矢崎節夫先生の本を読んでいて、ハッとしました。
「ひとは、さびしいことや悲しいことや辛いことは、半分くらいしか語らない」と書いてありました。
何でも話を聞いてくれる大好きな友達が居たとしても、どんなに信頼していても、やはり誰もが一番大好きなのは「自分自身」なのです。
ですから、どんなに信頼している友達であっても、これ以上話したら 自分がみじめになると思った瞬間、すっと話すのをやめてしまうのです。
自分がみじめさを認めるという事は、自分の存在を否定すると同じだから。
という事は、本当は、話してくれた「さびしさ」や「辛さ」は、きっと実際の半分くらいで、「あとは貴女が想像して」と言っているのです。
けれど、それは無理な事で、実際に同じ辛さや寂しさを味わった事がないと分からないのですよね。
それで、私みたいに「もうちょっと頑張ってくれたら良かったのに。今度こそ乗り越えられたかもしれないのに」と思ってしまうのです。
「ひとは、さびしいことや悲しいことや辛いことは、半分くらいしか語らない」のであれば、話してくれた事の何倍も さびしい思いや辛い思いを抱えているのだと思って聞かなければならないのですね。
私がしなければならなかったのは、歌うチャンスを作ってあげる事より先に、「つらいね」「きついね」「よしよし、大丈夫だよ」と、憂いのそばに立って、優しくしてあげる事だったのでした。
仕事がつらいと話してくれたとき、二人でかき氷を食べながら、私が彼女に語ったのは一体なんだったのかと・・・そのときは、最良の言葉だと思っていたけれど、そうではなかったかもしれないと今思っています。
「先生の声を聞くと癒されます」と言ってくれたのに・・・もっと優しい声を届けてあげなければならなかった。
今夜は、福銀ホールに、みすゞさんの「ほしとたんぽぽ」を歌われる演奏会に行ってきます。
彼女には、バスの中から、ゆっくりメールの返事を書きたいと思います。
彼女の事に限らず、自分以外の人が、辛さや悲しさや寂しさを口にした時、それは 語ってくれた何倍もつらく、かなしく、さびしいのだと思って聞くようにしなければならないと思っています。
実際、自分自身の事を考えてみても、楽しい事嬉しいことはどんどん話せるけれど、そうでない事は あまり人に話したくないものね・・・。

この風景を見ると必ず口にしてしまう詩があります。
~するめ~ まどみちお
やじるしになって
きいている
海はあちらですか と
昔の生徒であった彼女は、時々 私にメールをくれます。
彼女をとりまく環境は過酷であり、どんな強靱な精神の持ち主であっても折れてしまうだろうと思うような出来事がありました。
私のように のほほんと生きてきた人間には、想像でしか 彼女の辛さや悲しさ、寂しさはわかりません。
それでも、そんな私にメッセージをくれます。
元気な時ではなくて、心が弱った時にです。
一年契約で始めた仕事を、あと5ヶ月を残して辞めてしまい、後悔しながらも、これ以上は続けられなかった辛さは 先日のメールにも綴られていました。
私としては、これまでも同じような事が続き、今度こそはと願っていたので、かなりガッカリしてしまい、そのときも、どう返信して良いのか悩んでしまいました。
心の中では、「もうちょっと頑張ってくれたら良かったのに。今度こそ乗り越えられたかもしれないのに」という気持ちがあるものですから、口先だけで「いいよ、仕方ないね。よくやったよ」と言ってあげる事ができなかったのでした。
昨日のメールには、その後、ずいぶん落ち着いたこと、肩こりや手の痺れ、不整脈の治療に専念している事、仕事を辞めてしまった事への後悔などが綴られていました。そして、最後に、「歌いたい」気持ちが書かれていました。
思いっきり声を出して発散したいのでしょう。
私に出来るのは、歌いたい気持ちを解消してあげる事。
思いっきり声を出せる機会を作ってあげること・・・それしかないだろうと、どこでどう作るかを考えていました。
彼女の「歌いたい」という気持ちは、例えば、グループで思いっきりゴスペルを歌う事であり、独りで歌うのとは違うのです。
なので、その場を作るといっても、じゃあ明日ねって訳にもいかず・・・ちゃんと考えてから返事をしようと、昨日から考えていました。
でも・・・。
昨夜、矢崎節夫先生の本を読んでいて、ハッとしました。
「ひとは、さびしいことや悲しいことや辛いことは、半分くらいしか語らない」と書いてありました。
何でも話を聞いてくれる大好きな友達が居たとしても、どんなに信頼していても、やはり誰もが一番大好きなのは「自分自身」なのです。
ですから、どんなに信頼している友達であっても、これ以上話したら 自分がみじめになると思った瞬間、すっと話すのをやめてしまうのです。
自分がみじめさを認めるという事は、自分の存在を否定すると同じだから。
という事は、本当は、話してくれた「さびしさ」や「辛さ」は、きっと実際の半分くらいで、「あとは貴女が想像して」と言っているのです。
けれど、それは無理な事で、実際に同じ辛さや寂しさを味わった事がないと分からないのですよね。
それで、私みたいに「もうちょっと頑張ってくれたら良かったのに。今度こそ乗り越えられたかもしれないのに」と思ってしまうのです。
「ひとは、さびしいことや悲しいことや辛いことは、半分くらいしか語らない」のであれば、話してくれた事の何倍も さびしい思いや辛い思いを抱えているのだと思って聞かなければならないのですね。
私がしなければならなかったのは、歌うチャンスを作ってあげる事より先に、「つらいね」「きついね」「よしよし、大丈夫だよ」と、憂いのそばに立って、優しくしてあげる事だったのでした。
仕事がつらいと話してくれたとき、二人でかき氷を食べながら、私が彼女に語ったのは一体なんだったのかと・・・そのときは、最良の言葉だと思っていたけれど、そうではなかったかもしれないと今思っています。
「先生の声を聞くと癒されます」と言ってくれたのに・・・もっと優しい声を届けてあげなければならなかった。
今夜は、福銀ホールに、みすゞさんの「ほしとたんぽぽ」を歌われる演奏会に行ってきます。
彼女には、バスの中から、ゆっくりメールの返事を書きたいと思います。
彼女の事に限らず、自分以外の人が、辛さや悲しさや寂しさを口にした時、それは 語ってくれた何倍もつらく、かなしく、さびしいのだと思って聞くようにしなければならないと思っています。
実際、自分自身の事を考えてみても、楽しい事嬉しいことはどんどん話せるけれど、そうでない事は あまり人に話したくないものね・・・。
この風景を見ると必ず口にしてしまう詩があります。
~するめ~ まどみちお
やじるしになって
きいている
海はあちらですか と
タグ :金子みすゞ